面影橋姉妹の日々

突然意識不明になってしまった妹と姉の日々を綴ります

私の妹、

ゆきは、私とは、外見も性格も全く違いました。周りを気にせず、あまり女らしくない私に対して、周りをよく見て、敵を作らない、女子力の高い妹。若い時は、反発し合って、仲のよくない姉妹でした。お互いに結婚し、子供ができて、いろいろ経験していくうちに、理解し合えるようになり、最近は毎晩テレビ電話で話すのが日課になっていました。ですから、ゆきのことは、よくわかっていると思っていたけれど、ゆきが倒れてから、本当はそうでなかったのでは、と思うようになりました。

心配性で、コロナが流行りだしてからは、神経質なくらい気にして、消毒液を買いだめしていました。父を感染させないように、という思いから、買い物も、最低限にして、自分の病院受診も控え、2人の息子たちにもなるべく会わないようにしていました。

結婚してすぐ、義弟は、暴力やギャンブルで家庭を大切しないことがわかり、妹は、ずっと苦労してきました。生活のためのパートは、雑貨店、寿司店、保険会社、ドラッグストア、弁当屋、眼鏡店、イタリアンレストラン、宝くじ売り場など、その経験から、保険と薬には詳しく、料理も上手でした。そうかと思うと、方向音痴で、横文字に弱く、ファッションも、トレンドは気にしません。せっかちで姉御肌、一旦こうと決めたらブレないタイプです。手先は器用で、髪を結ったり、ネイルはするけど、裁縫は苦手。韓国ドラマが大好きで、一日中でも見ていられるくらいでした。

苦労させられた義弟は、5年前、肺がんで亡くなりました。結局は離婚せず、最期を看取ったわけですが、義弟は改心した様子もなく、ゆきにとっては最後まで不本意な結婚生活だったのではないかと思います。2人の息子を育てるのも、孤軍奮闘でした。

息子たちが手を離れるようになった10年ほど前に、フェレットのあられを飼い始めて、ほんとうに可愛がっていました。ただ、フェレットは飼育が大変で、短命な動物です。あられは、病気になって、5歳で亡くなり、ゆきは、ペットロスから、線維筋痛症という身体中が痛む病気になってしまいました。もともと、腰痛持ちで高血圧だったのに、更に不調に悩まされるようになったのです。そんな中で、6年前には母を看取り、1人になった父を引き受けてくれました。母が亡くなった後、私が猫の保護活動をしている群馬から、1匹の子猫を引き取って、まるくんと名づけて、溺愛していました。まるくんも、ゆきの三男?として、ママがいないといられない甘えん坊に成長しました。

こうして見ると、私は何をしてたんだろうと、思わずにいられません。実家から離れた群馬に嫁ぎ、夫の転勤で米国に駐在したりもしていましたが、ゆきに頼りっきりだったのは確かです。出来るだけ実家に来てはいても、やはり、一時だけのこと。実際の介護生活は、大変で、ストレスが多かっただろうと思います。そこのところを、私は、本当には分かっていませんでした。更に、コロナ禍が何年も続いて、不安や制約が重くのしかかり、ついに限界を超えてしまったのです。

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まるくん。後ろの棚は、消毒液のストック。