面影橋姉妹の日々

突然意識不明になってしまった妹と姉の日々を綴ります

落ち葉の季節

ゆきが逝って、夏が終わり、秋も深まりました。

木々が紅葉して、街は落ち葉がいっぱいです。

実家のマンションは、40年ほど前に建てられた大規模マンションで、敷地内の植栽は、年月を経て、ちょっとした森林公園のようになっています。サクラ、ハナミズキイチョウケヤキモミジバフウプラタナス・・・ 赤や黄色やオレンジ色の、様々な形の落ち葉は、それぞれにきれいで、思わず拾って取っておきたくなってしまうほどです。

新芽が若葉になり、夏を過ごして、秋、色づいて、役目を終えて散る、というのは、人の一生に似ています。縁あって、同じ枝に身を寄せあって生い茂っていた家族には、やがて誰かが枝を離れ、ひとり、またひとりと地面に落ちる時が来ます。もう一緒に輝き合うことはありません。でも、いつか、みんな土に還って、同じ木の枝や葉の中に溶け込んで、一つになることはあるかもしれません。

妹は、姉の私より先にこの世を去りました。でも、もし、私が先だったら、フェレットのあられを亡くした時のように、悲しんで、たくさん泣いて、また何か辛い病気になってしまったかもしれません。それだったら、これでよかったのだと思えます。

従姉妹が絵本をプレゼントしてくれました。たまたま、昨年の11月下旬、妹が倒れる一週間ほど前、実家に父と妹を訪ねてくれて、その帰り道に銀座の教文館で原画展を見たという『こうさぎとおちばおくりのうた』です。こうさぎたちが、秋祭りの日に、「おーくれおくれ おーちばおちば てんまでおくれ」と歌いながら野山を歩きます。秋の日の、静かな明るさの中で、落ち葉を愛おしんで、季節の巡りといのちの循環を喜び合うような場面が美しい絵本です。無邪気なこうさぎの兄弟たちのような、幸せな子供の頃を、私たち姉妹も、面影橋で過ごしたのでした。

もうすぐ3回目の月命日です。

1年前、最後に直に会った日も忘れられません。

そして、妹が倒れて、病院にかけつけた日も。

昨年のクリスマスは、妹のいないクリスマスでした。壁には一緒に選んだサンタのタペストリーが飾られたまま、またクリスマスがやって来ます。

これから、ずっと、こうして記念日を数え続けていくのでしょう。いつか、私の命が終わる日まで。

死後の世界のことは、いろいろな説があるようです。会いたい人に会えるのか、会えないのか、行ってみないとわかりません。でも、きっと会えると信じたい。 生まれ変わって、今度はゆきが姉になって、私が妹になるのもいいかも。

ゆき、楽しみにしてるよ!

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姉妹

淋しい。

淋しい時には、淋しがるしかない。

誰の言葉だったっけ。

街を歩いていて、気がつくとゆきに似合いそうな服を探しているし、一緒に来たところや、ゆきの話の中に出てきたところを見ると、悲しくなります。今まで、何でもゆきに相談してきたし、これからも、父のことや実家のこと、ゆきと一緒なら何とかなると思っていたのに、私ひとりになってしまいました。自分がどれだけゆきを頼りにしていたか、今さらながら思い知りました。

遺影を見るたびに、泣きたくなる。

この淋しさ、愛おしさは、何なのでしょうか?

血を分けた姉妹だから、感じる気持ちなのでしょうか。それとも、私たちには、もっと根源的な、グループソウルのような魂の絆があるのでしょうか。

最近読んだ『ほの暗い永久から出でて   生と死を巡る対話』(上橋菜穂子 津田篤太郎 )の中に、人は生まれた瞬間から、生きなければならず、でもいつかは必ず死を迎えるという矛盾を与えられ、一期一会の生を生きているのだと書いてありました。自分も、大切な誰かも、滅びる定めだからこそ愛おしいのだと。考えてみると、私も、妹も、誰でも、生まれた時から刻限の分からない余命宣告を受けて生きてきたようなものです。そう考えると、全てが奇跡のように幸せな日々だったと思えます。

私たち、また会えるのでしょうか?

今度はいつ?

会って、声を聞き、笑い合いたい。

時の流れの中には、繰り返されるたくさんの生涯があって、今生で私たちが姉妹として出会ったこと、それは、あたかも、砂浜の砂の一粒が、日の光にきらりと光る瞬間のような、儚いけれど確かな、一瞬です。

このためにだけでも、私、生まれて良かったなぁ。

ありがと、ゆき。

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遅れたけど

気がつくと、夜中まで賑やかだった蝉の声はまばらになって、アオマツムシの鳴き声が聞こえてくるようになりました。

葬儀に参列してくださった、妹がとても親しくしていた方のところへご挨拶に行きました。妹が以前住んでいた私鉄駅前のイタリアンレストランの奥さんです。パスタがとても美味しくて、妹も一時期パートで働いていたこともあり、家族みんなでよく食べに行っていました。妹とは、いつかまた食べに行こうと言い合っていましたし、妹が倒れてからは、「早く良くなって、2人で4月にはお誕生日祝いをしに行こう!」と、心の中で約束していたのです。妹がいつも決まって食べるのは、ベーコンとキノコのトマトソーススパゲッティでした。それと、ブラックのアイスコーヒー。夏でも冬でも、パートの賄いでも、必ずそれを頼んでいました。

スーパー銭湯にみんなで泊まりに行った帰り道、両親と、妹と私と、それぞれの2人の息子たち、総勢8人で、楽しい旅の締めくくりに、美味しいパスタを味わうのが恒例でした。今思い出すと、あの頃が一番楽しかったような気がします。今回は、私1人ですが、妹はきっと一緒に来ていると思いました。店に着くと、久しぶりなのに、前とちっとも変わらない雰囲気と、物音や、お客さんたちの様子に、まるでその辺から妹がひょっこり現れそうな気がしました。自分にはホットコーヒー、妹にはアイスコーヒーを頼んで、小さな声で、「ゆき、ハッピーバースデー!」と言いました。4ヶ月も遅れちゃったけど、やっと来られたね。

奥さんとは、長い間のいろんな思い出や、妹のこと、近況など、積もる話をして、お店を後にしたのでした。

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好きだったもの

葬儀を終えてからは、いろいろな手続き、葬儀の精算、返礼品の手配、と毎日があっという間に過ぎていきます。父の眼科通院も、今までは介護タクシーをお願いして行っていましたが、初めて自分の車で行くことができました。父は、少し食欲が落ちてはいますが、日常を取り戻しています。

家には真新しい妹の遺影を飾った祭壇を作りました。それでも、妹が亡くなったという実感はまだあまりなく、ただ、本人にとって不本意な、意識不明で寝たきりの状態から解放されたことに対する安堵感は感じています。

妹は頑張り屋でした。パートの仕事でも、勉強して資格を取ったりしていました。家では、潔癖症なところもあって、掃除も徹底していました。でも、何より、いちばん頑張ったことといえば、2人の子供を生み、育てたことです。子供たちのことは大好きで、もう成人して独立しているのに、いつも気にかけていて、コロナが流行するようになってからは、思うように会えないのを残念がっていました。

毎日、街を散歩しながら、妹のことを考えます。妹はこの街が好きだったのでしょうか。30数年前には、駅の周辺には何もなくて、イトーヨーカドーがぽつんと建っていたくらいでしたが、最近では駅ビルができ、ビジネスホテルやマンションがどんどん建設されて、見違えるようです。賑やかなところが好きな妹には、暮らしやすかっただろうと思います。

私にとっても、今は見慣れた街並みになりましたが、妹がよく行っていたお店や、好きだったお店を見ると、妹と一緒に行けたらいいのに、と思ってしまいます。

葬儀のときに、お坊さんがお話の中で、これからは妹の好きだった食べ物や飲み物を、代わりに味わってあげた方がいいと言われました。今まで、折に触れて陰膳を据えたりはしていましたが、妹の好物を食べるのは、食べられない妹を思うとできませんでした。でも、何かを食べたり飲んだり、味わうことができるのは、生きている証です。妹が、この世にあって、味わって、好きだったものを覚えていたいと思いました。

好きだったのは、鰹のたたき、貝のお刺身、砂肝、QBBチーズ、桃、ジャスミン茶、いいちこ、パセリ、クレソン。よく作ってくれたのは、ナポリタン、ミートソース、ミネストローネ、巻き寿司、スペアリブやナンコツの煮物、シソときゅうりの酢の物。

早速、今日の食卓にどれかをのせることにします。

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お別れ

妹の葬儀を執り行わなければなりません。それなのに、妹の長男がコロナに感染したらしいというのです。7歳下の次男が喪主になるとしても、本人は不安そうです。そんな時、従姉妹が教えてくれたのは、最近、何人かが連名で喪主になることが多いということでした。誰がいつコロナに感染するかもわからないし、自治体から支給される埋葬料の手続きも、会葬御礼はがきに喪主として印刷されている者が行えるということで、妹の場合も、長男、次男、姉の私の3人の連名としました。

葬儀の日程を決めようとすると、斎場もお寺も、予約がいっぱいで、通夜が5日後、告別式は6日後が最短だということで、やっと決めることが出来ました。日にちがかかるため、エンバーミングという処置をお願いすることにしました。費用は、18万円。高額ですが、ドライアイスもいらなくなるし、衛生的で、美容的にも、妹が喜びそうです。いつ頃から導入されたのか知りませんが、6年前の母の葬儀の時にはまだ耳にしませんでした。(式場は同じです。)

全国のコロナ感染者数は高止まりで、内うちの家族葬ということにしました。それにしても、長男は、どうすればいいのでしょうか。やはり、陽性の判定がでました。それほど重くはないようですが、無症状ではないと言います。発症から数えると、告別式の日がちょうど10日目です。身内にも高齢者はいるし、父のこともあるし、でも、妹と長男を会わせてあげたい。悩みました。

父も、妹に会わせたい。家の中では移動に不自由はないとは言え、長時間、ポータブルの酸素ボンベでは負担がかかるし、車椅子が必要です。介護タクシーを頼もうと考えましたが、予約が取りづらく、難しいと思い、急遽、介護保険で車椅子を借りました。父には、通夜は家で留守番してもらって、告別式には車椅子で参列して、出棺後に私が家まで送り届けることにしました。式場、家、斎場が、それぞれ車で30分圏内にあることと、私の車は、軽自動車ですが、天井が高いゆったりしたタイプなのも助かりました。

葬儀というものは、みんな慌しく、ハプニングがあったり、勘違いがあったりするものなのでしょうが、今回も、バタバタと進んでいきました。

結局、長男は、通夜の日の深夜、妹に対面しに来ました。翌日は、斎場で、最後の収骨の時だけ参加して、お骨を抱いて斎場を後にしました。

月曜日に亡くなって、土曜日に通夜、日曜日に告別式、ちょうど一週間のことでした。

私には、妹が8ヶ月も寝たきりで頑張ったのは、ひとり暮らしの長男が、コロナに感染しても、重症化せず、回復するのを見守って、その難を背負っていくためだったのだと思えてなりません。それでも、ぎりぎり別れを告げられるように、ちゃんと段取りして…

ゆきらしい最期でした。お疲れさまだったね。

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旅立ち

あまりにも急に、妹は旅立ちました。

朝、病院から、発熱して肺炎の兆候があるので、面会に来てくださいとの電話を受けて、出かけて行くと、もう心臓が止まりました、と言われたのです。

12月に倒れ、2月に今の病院に転院してから、コロナのために面会できない状態が続いていましたから、いきなりの病状の悪化を受け入れることができません。しかも、1人で逝かせてしまうなんて、申し訳なくてやりきれません。もう少し早く、知らせてもらえていたら。意識はなくても、手を握ったり、言葉をかけて、送り出してあげたかったのに。

ゆき、ごめんね。

今まで、ありがとう。

もう苦しむことはなく、痛みもなく、怖いことも何にもないね。自由に行きたいところに行って、会いたい人に会えるんだね。

これからも、心はずっと一緒だからね。

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夏!

市役所へは歩いて15分くらいで行けます。私の地方都市的感覚では、とても近い! 途中、長い垣根に沿った歩道を歩くのですが、ベニカナメモチサザンカ、マサキなどの混ぜ垣に、盛大につる草が絡んで夏の真っ盛りという感じです。ヤブカラシ、ヘクソカヅラ、ヒルガオノブドウなどで、さすがにうちの地元のようなクズとかヤマノイモなどのようなワイルドなのは生えていませんが、ノブドウは、こちらの方が実付きがよいようで、早くも色づき始めています。蝉の抜け殻は1メートルおきくらいに付いているし、鳴き声も耳を圧するばかりです。この間は、アオスジアゲハも見かけました。小ぶりだけど、元気に飛び回っていました。私の知らなかった、この街の夏です。去年の夏には、妹もここを通ったのでしょうか。

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ノブドウ。色とりどりに実が色づきます。


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アオスジアゲハ。さわやかな青ですね。