どこにいるの?
妹は、眠ったまま、転院先の病院に移りました。
病院と言っても、外来の患者がフロアで順番を待っているような病院ではありません。入院患者が、ひっそりと、淡々と、最低限の対応で、日々を過ごすための病院です。折しも、コロナのオミクロン株が広がってきて、妹とは面会することも出来なくなりました。身体に触れて、体温を感じ、声をかけたり、マッサージしてあげることも、許されないのです。そんな中、何度も考えたのは、本人の気持ちです。どうして欲しいと思っているのでしょうか?
まず、藁にもすがるように、スピリチュアルカウンセリングを受けようと思いつきました。元々、妹は、霊感が強く、理屈では説明できないようなことを大切にしているので、今は、身体は不自由になっていても、心はどこかで何かを伝えたがっているに違いない。このまま、話すことも、意思疎通もできなくなってしまうなんて、あり得ないと思いました。亡くなった人の魂がどうなるのか、どこへ行くのか、書かれたものはありますが、どんなに調べても、妹のような場合の魂のことはどこにも書いてありません。霊能者なら教えてくれるかもしれません。けれども、コロナのため、対面でカウンセリングを行っているところはなく、やっていてもオンラインで2ヶ月待ちなんていうところばかり。やっと見つけたのは、テレビ電話でやっている方でした。その方のカウンセリングを受けましたが、当たり障りのない答えと、気休めしか得られませんでした。
実家のベランダには、妹が育てていた鉢植えが、寒さに負けず頑張っていました。いつまでも咲かないと言ってこぼしていた小菊が、やっと咲き始めていました。
遠くに見える富士山と、小菊。
長期療養型病院へ
近年、医療が進歩して、心肺停止から蘇生するケースは増加しているといいますが、その7割が蘇生後脳症になるそうです。脳がどんなダメージを受けているかによって症状も様々になり、妹の場合は、ほとんど自発呼吸がないため、気管切開して人工呼吸器を装着して、静脈から栄養を摂っています。ドラマなどを見ていると、昏々と眠るヒロインが出てきますが、実際には、そんなに簡単なことではないのです。生命を維持するためには様々な処置や装置が必要で、そのすべてにそれぞれ何かしらの合併症などのリスクがあります。更に、ただ寝ているだけでも、拘縮や褥瘡など、多くの問題が起こる危険性があるといいます。私は何も知りませんでした。ごく稀に、奇跡的に回復した症例もあるけれど、それは子供や若い人に限られていて、妹の場合は、80代や90代の高齢者と比べれば年は若いけれど、医師の言葉のニュアンスでは、かえって闘病が長引いて大変だ、ということなのでした。確かに、毎月の入院費は、大きな負担になります。そこで、長期療養型病院は、できるだけ少ない人員による、限られた範囲の処置やサービスを提供し、経費を抑えることで、語弊はありますが、競争し、集客しているのです。そして、高齢化社会の今、そういった病院は、どこもほぼ満床に近い状態なのでした。
妹にとって、どうしたらいいのか、難しい選択をしなければなりませんでした。
ベランダからの夕景。富士山を望むこの景色は、妹のお気に入り。
面影橋
タイトルがなぜ面影橋姉妹なのかというと、私と妹が育った団地の名前が面影橋住宅だったからです。新宿区戸塚一丁目410番地、都電荒川線の面影橋駅から徒歩3分の、4階建ての建物が4棟ある団地でした。小さな池が3つと、砂場と原っぱもあります。隣接して甘泉園公園という大きな公園や、水稲荷神社もあり、夜にはフクロウやウシガエルの鳴き声が聞こえました。電車通りの向こうには神田川が流れ、面影橋という橋がありました。当時は川の水もきれいで、周辺の染め物屋さんの友禅流しも見られました。中2までを過ごしたこの家は、今では跡形もありませんが、私と妹の懐かしい原点なのです。
妹が倒れてから、慣れない実家での暮らしの中で、しきりに面影橋の家のことを思い出すようになりました。記憶の中の音や匂い、よく遊んだ場所や友達…。母は6年前に亡くなり、父も高齢のため、昔のことも、最近のこともあらかた忘れてしまっています。ふと、妹以外には、誰にも、懐かしい何もかもを、確かめたり、分かち合ったりすることはできないということに気がつきました。年を取るっていうことは、こういうことだったのか、という思いがひしひしと胸に刺さりました。
2歳くらいのゆき。後ろに見えるのは面影橋の欄干。
空しい抵抗
病院の医師も、ソーシャルワーカーも、当たり前のように長期療養型病院へ、と言いますが、そこでは、積極的な治療はできないとのこと。要するに、現状維持で、何があっても、看取るだけ、という病院なのです。事務的で、取り付く島もない言葉でした。まだ、倒れて1ヶ月もたっていないのに、諦められません。蘇生後脳症とは、心肺停止から蘇生した後、脳に損傷が残ってさまざまな障害を起こすものです。妹の場合、脳浮腫のため、意識も自発呼吸も戻らない状態でした。それでも、回復する可能性が全くないとは言えないと思っていました。また、医師からは、妹の不整脈は、QT延長型不整脈の疑いがあると言われました。聞いたことのない病名でしたが、遺伝性もある深刻な病気だといいます。妹は、確かに不整脈があると言っていましたし、もう検査をすることもできませんが、これからまた発作が起こる可能性があります。何とか、もう少し治療を続けてもらえる病院に入院させたいと強く思いました。ソーシャルワーカーにそう言うと、「私は専門家ではないので、そういう病院への紹介はできないので、自分で探してください。」と言うのです。病院のソーシャルワーカーは何が専門なのでしょうか?私は、自分で、スマホを頼りに、東京と埼玉の病院に片端から問い合わせました。そしてわかったのは、今の日本の病院のシステムでした。私たちは、素晴らしい保険制度の恩恵を受けていると思っていましたが、それは同時に、病院や医師の側の利便性や採算性のために決められた枠組みに嵌められているということなのでした。
まず、妹のような患者は、今いるような大きくて高度な医療を行う病院からは、同じ程度の病院に転院することはできないのです。病状の格付けをされたら、それに従って、設備も、医師やスタッフの数も、薬も、等級によって決められていて、分担通りに受け入れるシステムなのです。奇跡なんて起こる余地はないのです。どこに電話をしても、ろくに話も聞いてくれず、入院している病院のソーシャルワーカーから連絡するようにと言われてしまうのでした。中には、親身になって話を聞いてくれたところも、2ヶ所だけありました。結果は同じでも、共感してくれる人がいるということは、心に沁みました。
専門医のセカンドオピニオンも聞きに行きました。そこでは、妹のような人はたくさんいて、もし治療する方法があるならノーベル賞ものだということを、丁寧に、諭されました。担当医の言うことは間違っていないと、言われました。
結局、気管切開して人工呼吸器を付けていても、ウイニング(人工呼吸器からの離脱)のトライをしてもらえる医師がいて、もしまた心臓発作が起きても、最低限の蘇生処置をしてくれるという病院を探して、ソーシャルワーカーに告げると、「そこをお薦めしようと思っていました」と取りすました言葉。精一杯の選択だったのに、ただ無力感を感じてしまいました。
こうして、倒れてから2ヶ月後、妹は、長期療養型病院に、転院したのです。
妹がベランダで育てていた小菊が、寒い中、やっと咲きました。妹に見せたい!
目を覚まして!
妹が倒れてから3週間ほどでクリスマスがやってきました。実家の玄関ドアには、私が前の年に作ってプレゼントしたリースが飾ってありました。部屋の壁には大きなタペストリーも貼ってあります。星空の中を、サンタクロースのそりが飛んでいるデザインで、いくつかの中から、「どれがいいと思う?」と聞かれて、2人で選んだものです。両側には100均のイルミネーションも付けてありました。いつもなら、プレゼントを贈りあっている頃、私は何度も病院に足を運びました。と言っても、コロナのため、面会は週1回15分だけ。やっと面会して、声をかけて、身体をマッサージしても、妹は眠ったままです。ラジオやCDプレイヤーを届けて、聴かせてくれるようにお願いしました。あとは、医師の説明を聞いたり、ソーシャルワーカーとの面談をしたり、紙オムツや着替えを届けたり。そして、わかったのは、低体温治療もステロイドも効果がなかったこと。気管挿管が長引くことのデメリットと、気管切開について。もう有効な治療はないので、長期療養型病院に転院しなくてはならないこと。妹は、まだ60歳で、ついこの間まで、普通に暮らしていたのに、です。そう簡単には受け入れることはできませんでしたが、妹が楽になるなら、と、気管切開の手術を受けさせることに同意しました。そんな中、街はクリスマスや年末の賑わいで溢れていました。父と2人で、妹が生協に頼んであったチキンを食べました。悲しい、思い出したくないクリスマスになりました。
晴天の霹靂
私は、群馬県の地方都市で、のんびりと老後を迎えようとしていた主婦です。2人の息子は独立し、家には夫と3匹の猫がいます。趣味は手作りと保護猫活動のお手伝い。実家は埼玉で、3歳下の妹ゆきが91歳の父と猫のまるくんの世話をしながら暮らしていました。
半年前のその日も、いつものように朝から家事をして、猫の世話をし、渡良瀬川の土手を散歩しました。昼には妹が作ってくれたミートソースを解凍してパスタを食べました。午後からは、市内に借りているアトリエに行き、作業していました。12月になったので、クリスマスツリーやスノービレッジの飾り付けの真っ最中でした。妹に「ミートソース美味しかったよ」と電話しようとして、どうせ夜には電話するからいいか、と考え直して、また狭い部屋を行ったり来たりしていた時、電話がかかってきました。父からでした。
「ゆきが倒れて、救急搬送された」
慌てて戸締りだけして、埼玉の実家に向かいました。普段は使わない高速道路を走りながら、どうか生きていてほしいと、そればかり念じていました。
こうして、怖い夢の中にいるような日々が始まったのです。